2001年8月発刊金沢南創立30周年記念誌「燃えよ闘魂」より

基礎建設期
  1970年(昭和45年)〜
 世紀のスポーツ祭典、オリンピック東京大会が1964 (昭和39)年にわが国で開催されるにあたり、1962 (昭和37)年6月23目、「スポーツと縁のない青少年にも広くスポーツの光をあて、彼らにも健康と幸福を」と目本スポーツ少年団が創設され、本県にも同年7月1目に「石川県スポーツ少年団本部」が創設された。同時に各町村にスポーツ少年団の理解と啓蒙、スポーツ少年団結成の協力を働きかけた。1968(昭和43)年メキシコオリンピック鋼メダル獲得でサッカーの人気が高まり、本県でも昭和45年、泉信二(長土塀)が少年サッカーに熱い情熱を持った仲間に呼びかけ、中村町小(高本勇吉)、符津(谷口昭人)、安宅(矢田幹矢)、山島(宮野修次)、宇ノ気旭町(北井武彦)、押水第一(広正繁忠)、七尾大和町(真藤政一)、高浜(恒川靖弘)、中島町(橋本哲夫)、の10サッカースポーツ少年団による「少年サッカーを育てる会」を結成、6月より4週にわたって第1回石川県少年サッカーリーグの大会を開催して少年サッカーの産声を上げた。
 翌46年、長土塀、中村町小、七尾大和町に代わって金沢南(泉信二)、諸江(松田正三)、外目角(柴田直樹)の3団が創設され、少年サッカーの普及に取り組んだが、指導者不足、団運営や活動施設の確保と多くの問題が山積みし、途中休団、解団するものも出るなど、育成に苦労が重ねられた。
 1972(昭和47)年、泉信二が少年団より県協会へ赴き、県協会、金沢市協会、県学生連盟の支援を得てサッカー教室の開催、金沢市民体育大会、第1回スポーツ少年団大会、第7回読売全国選抜大会に石川選抜チームを編成して参加する要請を行った。さらに、サッカー独自の活動が未だ少ない中、多種球競技のスポーツ少年団の卓球、ミニバスケット、スキー、スケートなども取り入れて底辺拡大に向け一歩ずつ前進をとげていった。
 1976 (昭和51)年、松田正三が2代目「少年サッカーを育てる会」会長となり、チーム数も16団に増え活気が出てきた。6〜7月前期の第7回石川県少年団サッカーリ−グ大会、9〜10月後期の第5回石川県スポーツ少年団サッカー大会では子供達が練習した力を試すため全員が大会に参加できるよう1部、U部、V部制を取り入れた。1部は各団のベストメンバーで編成したチーム、U部は5年生もしくは6年生でも1部に入れなかったメンバーによるチーム、V部は4年生以下で編成したチームとした。試合数も増え運営に苦慮したが盛り上がった大会となった。3月岐阜県で行われた少年サッカー指導者講習会において、三重鈴鹿地区の指導者との間で交流会の話がまとまり、7月の夏休みに2泊3目の日程で毎年交互に受け入れし交流することになり、まず石川県の10チーム200名が三重鈴鹿に遠征して初の県外交流を行った。
 1977(昭和52)年、10年間8月に行っていた全国読売選抜大会が第1回全日本少年サッカー大会に発展、6〜7月に行っていた石川県大会と改称し、符津が福井県代表に勝って北陸代表として8月の決勝大会に出場した。また、長年の要望が実り、8月に県湊サッカー場が竣工、石川、三重鈴鹿地区少年サッカー交歓会を4面を使って行った。排水が悪いため、雨が降ればぬかるみ、夏は雑草が茂る会場ではあったが、少年サッカー場ができたうれしさから、子供達と保護者総動員でグランドの設備、草刈りをして、みんなで大切に使った思い出多きグランドだった。
 1978 (昭和53)年、谷口昭人が3代目「少年サッカーを育てる会」の会長となり、第2目全日本少年サッカー石川県大会をI、U、V部制で行い、全国決勝大会も各県代表48チームが参加して行われた。県代表として出場した金沢南は4敗1分で、前年の代表符津に読いて、石川県および北信越のサッカーが普及、技術、運営の面ですべて後進県であることを痛感させられた。
 同年11月、第1回石川県スポーツ少年サッカー新人大会を間催した。富山県に呼びかけ、金沢で4チームによる交流会、第1回北陸新人大会を行ってレベルアップに向けて抜を競い、金沢南が初代王座となった。
 1979(昭和54)年、第1目中部日本招待少年サッカー大会を金沢南が主催して長野、岐阜、愛知、三重、富山、福井県より16チームが参加、北信越で初の招待大会となったが、県外チームとの交流でレベルアップにつなかった。


普及拡充
 1980(昭和55)年〜
 1988(昭和63)年
 1988(昭和63)年 1980 (昭和55)年新規約により[石川県スポーツ少年団サッカー連盟」に改称、宮野秀次(会長)、大音与志雄(理事長4種委員長)でスタートした。草創期より10年間、スポーツ少年団をベースにしてすべての面で不足の中から試行錯誤しながら、指導者達のボランティア活動で自主運営をしてきたが、少ない人材では限度があり、普及拡大を図るうえからも組織的な指導者育成が不可欠となった。少年サッカーには保護者の理解と協力が不可欠であり、積極的にシーズン前に少年サッカー審判講習会を開いて審判の養成、技術講習会を行い、子供達の基本技術と指導者の増大に取り組んだ。第4回全日本少年サッカー大会の集いと抽選会を行い、1000人が集い、参加バッチ、ハンドブック、ポスターを配布して大会を盛り上げた。大会の会場設営やゲームの進行、審判、記録に保護者の動員を図り、少年サッカーの基本となる指導者、保護者、地域が一体となる「三者協育」体制が定着していった。
 8月に三重鈴鹿地区20チームを迎え石川県チームと交歓するほか、第2目中部日本招待サッカー大会を県協会主催として聞催した。この大会で知事杯が寄贈されると同時に、大音、松田、北(北国新聞)の3氏による中西知事、杉山副知事への陳情が実り、まめだサッカー場が完成し、その開会式に中西知事が出席、5面を使った少年サッカー大会のメッカで中部日本大会の開会式が挙行された。
 三重鈴鹿地区との交歓会は、県内チームの強弱を問わず、単独で県外チームとの交流ができないチームにも輪を広げるチャンスを与えるものである。中部日本大会は全日本石川大会の上位ベスト8チームが参加し、県外トップレベルのチームと交流し、より高い技術を競う大会である。いずれも県外チームをホームスティで受入れ、ゲームだけでなく子供達も寝食を供にした友情を深め、指導者、チーム同士の友好交流の機会を得るなど、他のスポーツ競技にない方式を取り入れて効果を上げてきた。
 11月富山県との間で行っていた新人大会を福井県にも呼びかけ、県営まめだグランドで第3回北陸3県新人大会を開き、翌年以降3県持ち回りした。こうした地道な努力の積み重ねによって「三者協育」が力強く作り上げられ、第3回、第4回、第5回の中部日本招待少年大会でぱ県勢が優勝、1982(昭和57)年の第6回、翌第7回全日本少年サッカー大会で、金沢南がベスト8へ進出、西田豊、砺波仁、佐々木洋輔が優秀選手に選ばれるなど、日本海側の雪国のハンディを持ったサッカー仲間に、夢と勇気を与えてくれた。 全国レベルに到達したとぱいえ、より上を目指すにはしっかりとした基本技術が必要であり、雪国の12〜3月の4か月、室内トレーニングをいかに使うかが大切であり、1987(昭和59)年1月、第1回サロンフットボール大会を松任市若宮体育館で開催した。これには6年生だけが参加したが、中学生にもつながるようにとの思いでおこなっている。
 1984 (昭和59)年、石川県スポーツ少年団サッカー連盟理事長に辰巳尚義が就任、大音与志雄4種委員長と共に少年サッカーに普及と充実に向け取り組む体制となった。加盟団体20、大会参加チーム80を超え、1,500名の子供達が大会に参加するまでになった。少年サッカー審判講習会の受講者は130名、150名と年々増え続け、底辺のサッカー人気が着実に高まってきた。報道関係、企業もサッカー人気に目を向けはじめ、1985(昭和60)年第9回全日本少年サッカー石川県大会を北陸放送がTV中継するに至った。同時に石川テレビ、北陸中日新聞が第1回若葉杯県ジュニアサッカー大会に協力し、1部、U部制で5・6年生全員が参加する大会として開催された。大会の模様をTV中継したり、新聞に大きく報道するなど、少年サッカーの普及に大きなインパクトを与えるに至った。


高度成熟期
 1989(平成元)年〜
 日本経済の高度成長により国際化が進むにつれ、少年達にサッカーが世界のメジャースポーツ、かっこいいスポーツ、自分もやりたいスポーツとして人気が高まり、加盟登録チームは急激な増え方をみせた。少年サッカーの全国につながる大会に、夏休み東京読売ランドの全日本少年サッカー大会、冬休み12月に清水市で行う全国チャンピオンカップがある。平成元年、’89国際少年サッカー大会が神戸市で各県代表48チームに外国招待チーム6チームを加えた計54ヂームで行われ、県新人大会優勝の金沢南が県代表で出場した。
 この大会で金沢南はマルセイユ(フランス)に2対2で引き分けるなど、6勝1敗1分でベスト16へ進出し、ユニバーシアード記念競技場のすばらしい舞台で決勝トーナメントでは四日市FCに0対1で惜敗した。翌平成2年、90年大会では金沢南がケンジントン(アメリカ)に6対0で勝つなど、5勝1敗2分で決勝トーナメントヘ進み、川内(鹿児島)に2対2の後PK7-6で競り勝ち、レナト・セセリーヌ(アルゼンチン)に0対2で破れたがベスト8まで進んだ。
 平成3年、91年大会では湾岸戦争のため外国チームは参加できず国内チームで開催。3年連続出場の金沢南は5勝2敗1分で決勝トーナメントに選出し、明治北(大分)に1対2で惜敗したが、ベスト16と日本海側で唯一の活躍を見せた。
 石川県スポーツ少年団サッカー連盟でも平成2年に木下和吉氏が会長し、平成4年に辻口等理事長が就任し、少年団サッカー大会では読売新聞、北陸放送、若葉杯ジュニア大会では石川テレビ、北陸中日新聞、北陸放送、U−12県地域選抜大会ではJA、テレビ金沢、北国新聞、NHKカップではHNK、北国新聞の協力を得て、チーム紹介、選手紹介、試合結果の報道、賞典の寄贈等多大な支援を頂いて県内各大会特色ある密度の高いものへと前進している。北信越でも率先して取り組んできた成果が、全日本少年サッカー決勝大会では金沢南が第6回、7回ベスト8、第10回、12回、15回、18回ベスト16の成績にあらわれている。また優秀選手としてDF西田豊、FW砺波仁、佐々木洋輔、MF小坂哲也、GK木村謙治、FW矢口敬、長路浩司、MF白川紳吾、FW山本大、FW林竜太、FW橋本晃司の11名を輩出している。さらに全国地域のチャンピオンズカップに金沢南が第14回、19回、22回、24回に招待され、全国各地の高いレベルのチームとのゲームを経験し、中学、高校へとつながっている。

少年団サッカーの指導者は「社会教育」の一環として地域と一体となって取り組んでいるが、戦後50年高度な経済成長をとげ、物質的に豊かな時代になった反面、親が伝えなければならない基本的な生活習慣や「あいさつやがまんができない」「感謝の気持ちが乏しい」など、家庭教育のしっかりできていない子供達が増えてきていることは事実である。そうした時代だからこそますます地域に少年団サッカーが必要であり、サッカーを通して人の生きざまを教え、心も体もたくましいチャレンジする良い選手を一人でも多く育てることが必要である。それによって21世紀を担う人材教育につながり、地域社会に貢献することになる。多くの良い選手の育成は「より優秀な選手の」発掘につながり、少年連盟の県内各地域における組織化、指導者の一層の前向きな努力が必要である。



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